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第一章 水の向こう側

1 いつもの朝

主人公である人間の男は、朝の出勤前、いつものように洗面所で顔を洗っている。

高校卒業後からスポーツ用品店で働いており、特別に出世しているわけでもない。

ただ、仕事そのものは嫌いではなかった。

高校時代は野球部に所属していた。

春も夏も地区予選決勝まで進んだが、どちらも敗退。

甲子園には一度も行けなかった。

それでも野球が嫌いになったことはなく、むしろ「あと一勝」が届かなかったからこそ、野球を見ることも、道具を扱うことも好きになっていた。

その日の朝も、いつも通りだった。

顔を洗い、出勤する。

ただ、それだけのはずだった。

ところが、顔に泡をつけている途中で異変に気づく。

水が流れている音がしない。

蛇口を止めた覚えはない。

不思議に思いながら顔を上げ、目を開ける。

そこには洗面所がなかった。

2 獅子頭の男

代わりに目の前に広がっていたのは、見たこともない石造りの部屋。

そして隣には、自分より遥かに大きな男が立っている。

人型。

しかし頭部は獅子。

全身を毛皮が覆い、鋭い爪と牙を持っている。

主人公は悲鳴を上げる。

獅子頭の男も驚いて一歩後退する。

互いに相手を警戒する。

ところが、目の前に置かれた寝椅子では、女の姿をした石像が優雅に横になっている。

石像は二人の混乱を気にする様子もなく、

「召喚は成功したが、なぜ二人いる?」

と呟く。

さらに術式についてぶつぶつと考え始める。

「なるほど。次元指定をせず、条件に合致する生命体を召喚対象にしたせいで、別々の世界から同時に……」

主人公は理解できない。

だが、獅子頭の男は怒りを抑えた声で言う。

「おい。今日はクライアントとの施工前の最終打ち合わせがある。職場へ行く時間なんだが」

主人公は驚く。

言葉が通じている。

獣人のような姿をしているのに、日本語を話している。

そして獅子頭の男自身も、この状況を理解していない。

ここで二人は、自分たちが同じ「召喚された被害者」であることを知った。

3 神の手違い

石像は、自分がこの世界を管理する存在であると説明する。

世界そのものを長い年月をかけて作り、そこに生命を宿らせた。

最初は原始的な生命だった。神が作為的に生み出したいのちはゆっくりと進化の道を辿りはじめ、

それが長い年月をかけて人間へ進化し、文明を築いた。

「わたくしは上手く行ったと満足しました。愛しきいのちが生き生きと過ごす様を眺められると期待しました。

しかし現在、この世界の住人たちは長い歴史の中で疲弊し、活力を失っています。」

争いがあるわけではない。

飢えているわけでもない。

ただ、「生きる理由」が薄れている。

毎日同じことを繰り返し、必要な仕事をして、食べて、眠る。

明日も今日と同じ。

明後日も今日と同じ。

その結果、世界そのものから活力が失われつつある。わたくしは、この世界の責任ある管理者として、手を打つことにしました。

まるで悪気のない声で、そう話す石像を呆然と見上げる二人。

「あなた方の世界には、娯楽というものが存在するでしょう?」

二人は黙る。

「この箱庭の住人たちに、生きる楽しみを与えてください」

主人公は叫ぶ。

「そんなの無理だ! 俺はただの販売員なんだ、生きる楽しみとかいきなり言われても困るんだけど!」

獣人も冷静に反論する。

「そもそも俺たちを勝手に呼び出しておいて、なぜそんな仕事を要求する?」

石像は悪びれない。石像なので表情も変わらず声も一定のトーンでこう続けた。

「やり方は問いません」

そして条件を告げる。

箱庭の住人に「生きがい」を提供すること。それができれば元の世界へ返す。

「では、よろしくお願いしますね」

「おい!そんなの言われても困るって!俺も仕事に遅刻するし!……なぁ!返事しろよ!」

声を荒げるが、それっきり石像は沈黙してしまった。いくら話しかけても返事をしない。

困っている者同士顔を見合わせ、二人は途方に暮れた。周囲には出口も見当たらず箱庭へと至る白い階段が見えるだけ。

打つ手は何も思いつかない。やがて不機嫌そうに眉間に深い皺を寄せる獣人に主人公はぎこちない愛想笑いを浮かべた。