12 / 15

第十二章 選択

19 選択

主人公は獣人に尋ねる。

「お前はどうする?」

獣人は答えない。

主人公は続ける。

「俺は……戻らなくてもいいと思ってる」

獣人が顔を上げた。

「ここで今の生活を続けたい」

自分でも驚くほど、迷いのない声だった。

石像が首を傾げる。

「よろしいのですか?」

「ああ」

主人公は隣を見る。獣人も笑っていた。

獣人は少しだけ目を細めた。それから、ゆっくりと頷く。

「俺も同じだ、帰らない」

主人公は思わず獣人の手を取る。ぐっと力が入った手を、握り返す手。

この世界に来てから、ずっと心のどこかに引っかかっていた。ここは仮の場所、いつか帰る。

だから、ここで作るものも、出会う人たちも、どこかで「帰る前提」のものだった。

けれど今は違う。もう帰らない。そう決めた。

それだけで、胸の奥にあった重たい重石がすっと消えていく。

石像は二人を見て、

「そうですか」

とだけ言う。

それ以上、何も言わない。

20 最終確認

主人公は石像に尋ねる。

「じゃあ、もうこの世界から出られないのか?」

「そういうことになります」

「なんだよこれ。もっと悩むと思ってたのに」

「散々悩んだのにな」

「決めてしまえば、こんなものか」

二人の笑い声が、石造りの部屋に響く。石像はそんな二人を眺めている。

「それでは、よろしいのですね?」

「おう」

「問題ない」

二人はほとんど同時に答えた。主人公は隣に立つ獣人の腕を軽く叩く。

「これからも頼むわ」

「こちらこそ」

これまでは「いつか別れるかもしれない」という時間の中で交わしていた言葉だったやりとりが、これからは違う。

明日もいる。来年もいる。その先も、きっと隣にいる。それが分かっただけで、世界が少し明るく見えた。

21 一つだけの願い

石像は、しばらく二人を眺めていた。この世界にもたらしたものは、片手では足りないだろう。

朝、畑へ向かう人々の顔に浮かぶ笑顔。子供達は棒と布の珠を持って走り回り、大人達は仕事の合間に次の試合の話をする。

集落同士の交流も増えた。負けた側は悔しさをバネにして更なる日々の鍛錬を誓い、勝った側も更なる飛躍を目指す。

かつてはただ日が昇れば働き、日が暮れれば眠るだけだった人々が、今では「明日は何があるだろう」と思いながら眠りにつく。

箱庭を作った時の思い描いていた希望や前途洋々とした日々を住人に与えることができたのは、二人の尽力の賜物と言えよう。

「あなた方は、わたくしの箱庭に不滅の活気をもたらしました」

二人は顔を見合わせる。

「その功績に報いるためにあなた方の願いを叶えて差し上げましょう。わたくしの力は全知全能の神のように強大ではありませんから、一つだけではありますが」

主人公は腕を組んで石像を睨め付ける。

「一つだけ?」

「はい。一つだけです」

「金とか?」「不要だろう」

間髪入れずに隣から獣人が言う。

「もう十分に稼いでいる」

「まぁ、そうだけどさ」

「でかい家とか?俺は今の家に不満ないんだけど、体がデカいと手狭で不便なことも多くない?」

「それも……今の家で特段困ってないな」

二人は考え込む。元の世界では欲しいものはいくらでもあった。金、時間、名声、不安のない明日。

だけど今は違う。欲しいものを考えようとすると、どうしても「これから」のことばかり浮かんでくる。

もう少し大きなスタジアムを作ってみたい。

子供たちが遊べる場所ももっと作ってあげたい。

もっと遠くの集落同士が試合をできるような、移動手段が欲しい。

この箱庭の人々が、自分たちの力で新しい楽しみを作れるようになってほしい。

「自分自身の願いよりお前の願いを叶えてやりたいと俺は思ってる」

獣人が零した言葉に主人公が振り向く。

「……じゃあ俺、いい?お願いしたいことがある」

「なんだ?」

「身体のこと、」

その言葉に、獣人の表情が僅かに強張る。主人公は少し迷ってから、続ける。

「俺たちはさ、最初は、ただ元の世界に戻りたかっただろ」

「ああ、そうだな」

「でも、もう帰らないしここで生きていくんだよな」

「そうだ」

主人公は自分の手を見る。

それから、隣に立つ獣人の大きな手を見る。

鋭い爪。自分よりずっとずっと大きな掌。

初めて会ったときには、恐ろしいと思った。

今では、その手が自分の荷物を持ってくれたり、危ない場所から引っ張り上げてくれたり、疲れたときは背中を支えてくれる事を知っている。

何よりもーーー

「俺、お前にもっと触れて欲しい」

獣人が息を飲んだ。主人公は少しだけ頬を赤くしながら決死の思いで続けた。目尻が熱い。

「……恋人なんだからさ。もっと近くにいたいんだよ」

獣人は答えることもできずに、ただ主人公を見つめている。

「でも、お前は俺を傷つけないように、ずっと気を遣ってるだろ」

「それは、……!」

「俺は、それが寂しい」

遮ってまでかぶせるようにして言った本心を、獣人は受け止めてくれると信じていたが、まっすぐ顔を見ることは出来なかった。

一度、腹の底にぐっと力を入れ直して深呼吸してさらに続ける。

「俺の願いは、俺の身体をこいつの全部受け止められる身体にしてほしい。獣人になってもいい」

獣人は、主人公の手を取らなかった。たじろいで、ほんの少しだけ距離を取った。

「……待ってくれ」

「え?」

「それは、俺のために願っているのか?」

主人公は目を瞬く。

「そりゃそう……」

「ならダメだ」

ハッキリとした言葉だった。あまりにもきっぱりと、ダメだと言い切る。受け入れられなかった失意に打ちひしがれながら、主人公の苛烈な感情が載った視線が獣人を射貫いた。

「なんでだよ!」

「お前が俺に合わせる必要はない」

獣人が好きになったのは、今の人間だったからだ。だからこそ、主人公が存在を書き換えて合わせてしまう事に抵抗がある。もしそうなった場合、必ず後から後悔をすると思った。

たしかに、人間の手より遙かに大きい。鋭くて長く尖った爪と牙。

主人公を力一杯抱き寄せたら、きっと柔な体は悲鳴を上げるに違いない。圧倒的な筋力差がある二人だったけれど、その弱さを補えているという自負もあるのだ。

「俺の身体に合わせて、お前の身体を変える必要なんてない」

人間は強がるクセがあるし、きっとこの差を思い悩んでいた時間があったんだろう。気付いてやれなかったことは悔やまれるが、お互いの種族が異なるからといって胸の内に芽生えた思慕が消えることは無かった。

「お前が人間であることを、俺は嫌だと思ったことは一度もない」

主人公の目は真っ赤に染まっている。黒目が潤んでもうすぐ目尻から涙が溢れそうになっていて、その雫を舐め取ったらどんなに美味いだろうと想像して舌なめずりした。

「お前の手も、声も、顔も、その身体もだ」

獣人は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。

「俺が愛したのは、お前だ。俺と同じものになったお前ではない」

主人公が不安に感じていたことを、呆気なく否定されてぐっと胸が詰まって、苦しかった。

「だから、俺のためにお前を変えてしまう願いなら、俺は望まない」

22 変化

「……でも、お前に我慢させたくない」

主人公はなおも言い募る。言い返す言葉にのっかるのは、相手を思うからこその熱意だ。

「配慮と我慢は違うだろ」

「でも全力で愛されてみたい」

獣人が思わず黙る。

「お前に触れてほしいんだ、いつでも」

少しテレながら、それでも目を逸らさずに主人公も言い切った。

「お前だから、触れて欲しい」

獣人の耳が跳ねるように動いた。

「でも、お前が俺を傷つけるのを怖がってるのも知ってる」

今度は耳先がやや垂れる。長い事一緒にいると、彼の感情がこんなに読み取れるようになったものだと、こんな時なのに主人公はあっけらかんと思う。

「俺が、自分を変えるのが唯一、一緒にいられる道だと思うんだ」

そこで、石像が静かに口を開いた。

「その願いについて、わたくしから一つ確認があります」

二人が石像を見る。

「あなた方の身体を、具体的な性器の形状や性行為に合わせて加工することはできません」

主人公は思わず顔を赤くした。

「ちょ……、そこまで言う!?」

石像は気にする様子もない。

「でうが、あなたの願いを別の形で叶えてさしあげる事は可能です」

「別の形、とは?」

石像の首が僅かに主人公の方へと向けられる。

「あなたの身体そのものを、獣人の身体つきへ変えるのではありません」

主人公と獣人は黙って頷く。

「あなたの身体が、あなた自身のまま。…彼との触れあいによって傷つかなくなる祝福を与えることはできます」

「……傷つきにくく?」

「爪や牙で肌が裂かれない、相手が獣人であることによって生じる身体的な差異が、あなたを害することないようにする」

主人公の目が大きく見開かれた。

「俺の身体は、俺のまま?」

「はい。事故や厄災など彼が触れる以外のことについては、元来のままなのでよければ」

その言葉を聞いた瞬間、主人公は隣の獣人を見た。

獣人は、まだ少し考え込むような顔をしている。

「……それなら」

ややあって、獣人が呟く。

「俺は反対しない」

「本当に?」

「ああ」

獣人が主人公を引き寄せ、今度こそ大きな手で主人公の手を包み込んだ。

「お前がお前のままでいられるのなら」

主人公は迷わず、確かに頷いた。

「じゃあ、それで頼む」

これまでなら、獣人はいつも力加減を気にしていた。

爪を立てないように。

牙を見せないように。

自分の大きな身体で、主人公を傷つけないように。

けれど、これからは違う。違う種族のまま。違う身体つきのまま。

それでも、互いに触れあうことを恐れなくていい。獣人は掌の中で、主人公の手を握り直した。

「本当に、いいんだな」

「いいよ」

気負わずに、主人公が笑う。

「俺が決めたんだから」

そう言ってつないだ手を上下に振って見せる主人公を、獣人はしばらく見つめ、やがてほんの少し目を細めた。

「そうか」

その声には、安堵が滲んでいた。

「なら、俺も願おう」

二人は並んで石像に一歩近づく。

「俺たちが、この先もずっとーーー」

主人公の声に、獣人の声が重なる。

「お互いを傷つけずに、共に長くいられるように」

そして獣人がそのあとに続けて言った。

「こいつのやりたいことが叶えられるよう願う」

二人の願いを受けて、石像は深く頷いた。

「承知しました」

柔らかなひかりが、二人を包む。主人公は目を閉じて、身を任せた。

何かが身体の奥を通り抜けていくような、不思議な感覚がした。身体に纏った光は空中に霧散して、やがて消える。

「……終わった?」

「終わったようだな」

二人して、双方の様子を見合うが特に変わったところはないように見えた。二人は顔を見合わせる。

主人公が恐る恐る、といった風に獣人の指と指の間に指を潜り込ませた。手の甲に爪の先がめり込む感覚がある。

「変わった感覚ないね」

「俺もだ」

二人は手をつないだまま、しばらく離さなかった。